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1-3 祖父の死 2

last update Last Updated: 2025-03-28 15:52:42

――その後

 葬儀場の職員と49日の法要等の手続きを済ませ、千尋が家に帰ってきたのはすっかり日も暮れていた。

祖父と暮らしていた家は築45年の古い木造家屋で平屋建て。

全ての部屋が和室であるが、部屋数は2人で住むには十分な数があり、幸男の趣味の家庭菜園が出来る程の広い庭付きの家である。

「ただいま」

真っ暗になった家の玄関の鍵を開けて、中に入ると白い大きな犬が千尋に飛びついてきた。

「ワン!」

「ヤマト、ごめんね。すっかり帰りが遅くなって」

千尋はヤマトの前にしゃがみ、頭を撫でるとヤマトは嬉しそうに尻尾を振った。

「ヤマト……」

そのまま黙ってヤマトの頭を撫で続けている。

「キュ~ン」

するとヤマトが鳴いて千尋を見上げた。その時になって初めて千尋は自分が泣いている事に気が付いたのである。

「あ……私、泣いて……」

そこからは堰を切ったように後から後から涙があふれきた。

「ヤマト……。お爺ちゃん死んじゃった……私独りぼっちになっちゃったよ……。こんな広い家でたった1人で、私これからどうしたらいいの……?」

するとヤマトは千尋の顔をペロリと舐めてジ~ッと見つめた。その姿はまるで(大丈夫ですよ。私がいます)と伝えているように見えた。

「そうだったね。私にはヤマトがいるものね。独りぼっちじゃなかったんだ……。ありがとう、ヤマト。」

千尋はヤマトをきつく抱きしめた。

「ヤマト、帰りが遅くなっちゃったからお腹空いてないかな?」

今朝家を出る時に1日分の餌と水を用意して出かけたのだが、量が足りたのか千尋は気がかりだった。餌と水を見るとすっかり空になっていたので、すぐに台所に行くとヤマトも後を付いてくる。

千尋がドッグフードと水を用意してヤマトの前に置くと、嬉しそうにすぐに餌を食べ始めた。

「ごめんね、やっぱりお腹空いていたんだね」

ヤマトが餌を食べている様子を見届けると、千尋は風呂に入る準備をした。

 部屋着に着替えて居間に入ると餌を食べ終えたヤマトが寝そべっていたが、千尋の気配を感じると起き上がって尻尾を振った。

「お風呂が沸く間テレビでも見よっかな」

千尋はリモコンに手を伸ばすと、たいして面白くも無い番組を見ていたが内容は少しも頭に入ってこなかった。

(お爺ちゃん……)

ともすればすぐに頭に浮かんでくるのは無くなった祖父のことばかりである。祖父のことを思い出すと、再び目頭が熱くなってくる。 

その時、ふいにヤマトに袖を加えて引っ張られた。

「え? 何? どうしたのヤマト」

ヤマトはそのまま千尋を風呂場まで引っ張ってきた。

「あ! お風呂沸いてたんだね? 気が付かなかった。ありがとうヤマト」

ヤマトはのっそりと風呂場を出ていた。

千尋は脱衣所の鏡の前に立つと、そこには疲れ切った顔の自分が映っていた。

「いやだ……酷い顔…‥」

目は赤く泣きはらしているし、顔色も酷く悪い。しかも心労の為か、たった数日で体重もかなり減ってしまった。

(これじゃ、ゆっくり体を休めなさいって言われても無理がないかもね)

千尋は深いため息をつくと、お気に入りの入浴剤を入れて風呂に入った。

****

 小一時間後、風呂から上がった千尋が自室に戻ると、いつの間に移動したのかヤマトが仰向けになって眠っている。この寝姿は毎度のことながら微笑ましい。

「お休み、ヤマト」

千尋は電気を消すとベッドに潜り込んだ。余程疲れ切っていたのか、程なくして寝息が聞こえ始めた。

そして、この日から千尋とヤマトの新しい生活が始まった——

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    「ち、千尋さん!」「はい?」突然大きな声で名前を呼ばれて千尋は返事をした。「あの、来週のクリスマスイブ、何してますか!?」「え……と? 普通に仕事ですけど?」「そ、そうですよね。お花屋さんなんて1年でも最も忙しい日かもしれませんよね。ハハハ」「里中さんも仕事ですか?」「はい……。しかもあの鬼のような先輩に遅番のシフト無理やり交代させられたんですよ。どうせ何も予定が無いから別にいいんですけどね……」「私も遅番なんですよ。でも仕事が終わったら<フロリナ>の人達とお店でクリスマスパーティー開くことになってるんです。もしよければお店にいらっしゃいますか?」「え! それ本当ですか!?」「はい、あ……でもパーティーと言っても大したこと出来ませんよ? 仕事の終わった後なので料理の準備が出来ないからデリバリーのピザや買って来たチキン……それにクリスマスケーキといった簡素なものなんですけど。毎年クリスマスはこんな感じで過ごしてるんです。それに今年は渚君も来るし、里中さんも、もしよければ……」「行く! 絶対に行くっす!」本当は二人きりで過ごしたいところだが、一人寂しくイブを過ごすよりも大勢でパーティーで盛り上がった方が数倍楽しい。しかも千尋がいれば尚更だ。「それじゃ、<フロリナ>の人達にも話しておきますね」千尋はにっこり笑った。(くう~! 神様! 生きててよかった! 先輩、感謝します!)ついでに前方を歩く近藤に感謝する里中であった。 近藤が連れて来たラーメン屋は豚骨スープのラーメンとあっさりした魚介で出汁をとった魚介スープの2種類を扱ったラーメン屋であった。麺は太く縮れてスープによく馴染む。「美味しい!」千尋はラーメンを一口食べて感嘆の声をあげた。千尋の食べているラーメンは塩の魚介スープ味だ。「千尋、これも美味しいよ。このトッピングの味卵もいいね」渚が食べているのは魚介スープの味噌味。一方、里中と近藤が食べているのはこってり豚骨スープの味噌ラーメンである。「あ~あ……結局こうなるのか……」里中は千尋と渚が並んで座って楽しそうに食べているのを横目でチラリと見て言った。あいにく店が混雑していてカウンター席で二人一組で別れて座る事になってしまったのである。「何だよ、折角人が気を利かせて千尋ちゃんと喋れる場を用意してやった俺にそんな口聞いて

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    近藤は手を振りながら千尋と渚の前に姿を現した。「あ、近藤さん。こんばんは」千尋が頭を下げた。「あれ? どうしたんですか? ん? 後ろのいるのは里中さんですか?」渚は近藤の後ろに隠れるように立っていた里中に気が付いた。「こ、こんばんは……」渋々里中は千尋と渚の前に姿を見せた。「凄い偶然だな~。俺達飯でも食べようかって一緒に駅まで来たんだよ。そしたら間宮君が千尋ちゃんと一緒の所を見かけて声かけたんだよ、な? 里中」近藤はその場で考えた嘘をペラペラと喋った。「あ、う、うん。実はそうなんだよ」仕方ないので里中も話を合わせる。「ふ~ん、やっぱりお二人ってすごく仲がいいんですね」千尋が近藤と里中を交互に見ると、渚が教えた。「うん。近藤さんと里中さんは大体いつもお昼ごはんを一緒に食べに来るんだよ」「なあ、どうせなら皆でこれから飯食べに行かないか? 俺美味いラーメン屋知ってるんだ? 千尋ちゃんはラーメン食べるかい?」近藤が尋ねる。「そうですね……。私はラーメン好きだけど、渚君は食べる?」「うん、千尋が食べるなら僕も食べるよ」二人が顔を合わせて話すのを里中は暗い気持ちで見ていた。その様子に気が付いたのか、近藤が明るい声を出した。「よおし! それじゃ皆で行こうか。間宮君、実は俺前から君と話がしたかったんだよね~」近藤が渚の隣に並んで話しかけてきた。「え、何ですか? 話って」「まあ、歩きながら話そうぜ」そして強引に渚を連れて先頭を歩き出した。後ろを振り返った時、近藤は里中に目配せした。(頑張れよ)そう応援しているかのように見えた。(先輩……俺の為に?)里中は近藤に勇気づけられて千尋に向き直った。「俺達も行きましょう、千尋さん」「そうですね。行きましょうか?」(どうする? でも一体何を話せば良い?)本当は話したいことは沢山あった。けれどもいざ千尋を前にすると緊張の為か何を話せば良いか分からない。でも黙ってるのも気まずい。「あ、あの千尋さん」里中は思い切って口を開いた。「はい?」「千尋さんはラーメンは何派ですか? 俺の中ではやっぱりラーメンと言えば豚骨味噌味が一番ですよ」「そうですね。私だったら、あっさりした醤油ラーメンかな?」「あー醤油もいいっすね~。特に刻み葱がたっぷり乗って大きなチャーシューがトッピングされてい

  • 君が目覚めるまではそばにいさせて   2-25 クリスマスイブの約束 1

     夜の公園で話をした後、里中は仕事の合間に渚を注意深く観察することにした。理由は渚のあの時の言葉の真意を測る為である。自分に残された時間は少ない等と意味深なことを言われては気になるのも無理はなかった。なので自分と帰る時間が重なる時は待ち伏せして様子を見ることにしたのである。今日がその第1日目であった。 通用口で渚が出てくるのを見張っていたその時。「何だよ、里中。お前探偵にでもなったつもりか?」近藤が後ろから肩をポンと叩いてきた。「うわあああっ!」里中は驚いて大声を出してしまった。「先輩! 脅かすのはやめてくださいよ! 心臓に悪い!」「な、何言ってるんだよ。あんな大きな声で叫ばれたこっちの方がおどろいたじゃないか」余程驚いたのか、近藤は胸を押さえている。「ところで、お前まだ千尋ちゃんの男を見張ってるのか?」「まだ千尋さんの男と決まったわけないじゃないです」「お前なあ、若い男女が二人きりで一つ屋根の下に暮らしてるんだぞ? 本当に何も無いと思ってるのか?」「言わないで下さいよ! 想像もしたくない!」里中は両耳を押さえる。「俺は今、間宮の動向を探るので忙しいんですから」再び里中は通用出口に目を移した。「お前、本当に暇人だなあ。なあ、そんなのやめて今から俺と飲みに行こうぜ?」「嫌ですよ。先輩酒に弱いじゃないですか。もう先輩のおもりするのはごめんです。あ! 出て来た」里中は現れた渚に注目した。「先輩、俺はあいつの後をつけるんで失礼します」「ふ~ん。俺もついてこうかな? どうせ今夜は暇だし」「駄目です、ついてこないで下さい」「それじゃ、なぜ間宮君を見張ってるのか教えてくれたら、ついてくのやめてやるよ」「それは……」「あ~っ! そんな事より見失うぞ!」近藤に言われて、慌てて里中は後を追った。当然のように近藤もついてくる。「なあ、こんなことして意味あるのか?」「先輩、文句があるならついてこないで下さいよ」渚はバス停で止まった。「あ、バスに乗るみたいだな? どうする? 俺達も乗るのか?」「勿論、乗りますよ」バス停には20人前後の人々が待っていた。里中と近藤は前方に並んでいる渚よりも10人程後ろで並んだ。やがてバスがやって来ると列に並んでいた人々がぞろぞろ乗り込んだ。渚も乗ったので、里中と近藤も後に続く。バスに揺られな

  • 君が目覚めるまではそばにいさせて   2-24 月明かり、濡れた瞳 3

     退勤後――里中は寒空の下、職員通用出口で渚が出てくるのを待ち伏せしていた。こんな事をしていても無意味なことは分かっていたが、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。暫く待っていると渚が出て来た。「おい、お前!」里中は渚の前に立ちふさがる。「……少し、時間くれるか?」「あれ? えっと、君はさっきの……?」渚は首を傾げた―― 二人は人気の無い公園に来ていた。里中は口火を切った。「俺はリハビリステーションスタッフの里中だ」「うん、そうだったね。ところで僕に何か用なのかな? 悪いけど、千尋が家で待ってるからあまり時間はとれないんだ」何気なく言った渚の言葉は里中の神経を逆なでした。里中はグッと両手を握りしめると言った。「やっぱり、二人は一緒に暮らしてるのか?」「そうだよ。今は一緒に暮らしてる。僕が料理担当で千尋は掃除と洗濯担当だよ。千尋はね、すごく僕の料理を褒めてくれるんだ。だからもっともっと美味し料理を作って千尋を喜ばせたいと思ってるよ」当然その話に増々里中のいら立ちは募る。「俺………お前よりもずっと前から千尋さんの事が好きだった。俺だって、彼女のこと喜ばせたいよ。くっそ、俺の方が早く出会っていたのに……」「君も千尋のこと好きだったんだ。僕も千尋のことが大好きだよ。一緒だね?」渚はさらりと笑顔で言う。「お前なあ、自分で何言ってるか分かっているのか?」「うん、良く分かっているつもりだけど?」「く……」里中は唇を噛んだ。(何だ? こいつの思考回路は少しおかしくないか?)「もう帰っていいかな? 千尋が家で待ってるから」渚は踵を返した。「お、おい! 待てよ! まだ話は終わってないぞ!」里中が渚を引き留めようとすると、渚の足がピタリと止まった。「……悪いけど、あまり待てないんだ」渚の口調が突然変わった。「え?」振り向いた渚の顔からは表情が消えていた。「僕には、君と違って時間が無いんだ。だから、少しでも長く千尋の側にいたい」「え? お前一体何を言ってるんだ?」「僕にとっては君の方が羨ましいよ。だって……僕にはあまり彼女と一緒にいられる時間が残されていなんだから……」月明かりを背に、渚の瞳は涙で濡れているように見えた。「! お前、何言って……」「それじゃ、里中君。また明日ね」次の瞬間渚の顔からは悲しみの表情が

  • 君が目覚めるまではそばにいさせて   2-23 月明かり、濡れた瞳 2

    「千尋ちゃん、今日も渚君の手作り弁当なの?」千尋と一緒にお昼休憩をとっている渡辺が声をかけた。「はい。渚君、自分の分はいらないのに、わざわざ私の分だけ作ってくれたんです」「あらま、自分の分はいらないってどういうこと?」「レストランで働いている人たちには、まかないがあるそうなんですよ」「へえ~羨ましいわね。ところで、今日は渚君迎えに来てくれるの?」「今日は私の方が帰りが早いので買い物して先に家に帰るつもりです」 「それじゃ、今夜の夕食当番は千尋ちゃんなの?」「はい、最初は渚君食事は全部自分で作るって言ってたんですけど、どちらか早く家に帰れた方が食事を作るってことに決めたんです」「ふふふふ……」渡辺が意味深に笑う。「な、何ですか?」「もう完全にのろけね、それは。いや~千尋ちゃん、愛されてるわ~」「そんなんじゃ、無いですよ! 私と渚君の間には何もありませんってば」千尋は顔を赤らめて抗議した。「そうかなあ~。誰の目から見ても、少なくとも渚君は千尋ちゃんに好意を抱いてるわよ? それとも千尋ちゃんは渚君に好かれると迷惑なの?」「そんな、迷惑だなんて思ったこと無いです」「嫌いじゃないんでしょ? 渚君のこと」「もちろんです」「だったら何も問題無いじゃない? 渚君に思われて悪い気はしないんでしょ?」千尋は頷いた。むしろ渚に好意を寄せられるのは嬉しい。けれど、渚は時々どこか遠い目をする時がある。近くにいるのに二人の距離は離れているように感じる時もある。後で自分が傷つくのでは無いかと思い、千尋はどうしても渚には深入りすることが出来なかった――**** 食事を終えて里中と近藤は職場に戻りながら話をしている。「それにしても驚いたな。まさかこんな場所で偶然会うなんて」「……はい」里中は神妙な顔で頷いた。「まあ、ライバルが同じ病院内で働いているのはお前にとってはあまり穏やかな気持ちにはなれないかもなあ?」近藤はニヤニヤしている。「先輩、面白がってませんか?」「そもそも、お前がもっと早く千尋ちゃんに告っていれば、間宮君と一緒に暮らすことにはならなかったんじゃないかな……っとやべっ!」近藤は慌てて口を押えたが手遅れだった。「先輩……」里中の瞳が鋭さを帯びた。「ヒッ!」近藤は小さく悲鳴をあげる。「一緒に暮らしてる……? 一体ど

  • 君が目覚めるまではそばにいさせて   2-22 月明かり、濡れた瞳 1

    「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来

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